幼少時代
私は昭和23年2月に福井市で生まれました。小学2年の時に公務員の父が病死し、苦しい経済状態の中、母に姉、長兄、次兄そして私の4人の子供が育てられました。幼少年時代までの私は、母の死がこの世で最大の恐怖でしたが、97歳まで長生きしてくれたのでほっとしています。
大学時代
地元の藤島高校を経て京都大学法学部に進みました。当時の京大は、他の大学も同様でしょうが、学生運動が盛んでほとんど授業も無く、法律の試験といえば、レポート提出で教科書を丸写しして出せば済むという有様でした。それ以上に不愉快だったのは、校門が一人分だけ通れるように封鎖されておりその地面に日の丸が描かれていたことです。日の丸を踏まなければ構内に入れない状態でした。私は当時から左翼学生には強い敵意を抱いていましたから、仲間の学生と一緒に夜間赤ペンキを地面にぶちまけて日の丸を赤旗に変えて鬱憤晴らしをしました。
法学についても特に興味も持てませんでした。大学の図書館で何々法学部教授退官記念論文集などという題名の本を見たときに、法学者というのは親分の退官に合わせて論文が書けるのかと思い、がっかりした記憶があります。こんなことでは、二期校で受験予定だった福井大学工学部に行ったほうがよかったのではないかという考えがその後も長く続きました。
司法試験と国家公務員試験
しかし、法学部にいる以上法律を勉強するしかなく、司法試験を目指しましたが、在学中には合格できず、昭和45年の卒業後福井県庁に就職しました。終業後一目散に帰宅して勉強する毎日で県庁の思い出はあまりありませんが、労働組合に勧誘されたとき、日頃おとなしい係長が「お前らよりわしは共産主義がどんなものかを知っている」と大声を上げた記憶は鮮明です。その係長はシベリア抑留の経験者で、課内でただ一人の非組合員でした。
その年、国家公務員上級試験を受けて面接まで進みましたが、試験官の「司法試験と公務員試験の両方に合格したらどちらに進みますか」という質問に対し、検事になりたいと正直に答えたため不合格になりました。
仕事をしながらの勉強では合格が難しいと思い、一年で県庁を退職してその後は朝から晩まで勉強に専念しました。浪人中にまた国家公務員試験を受験しましたが、金沢での筆記試験は帰りの汽車の時刻に合わせて誰より早く答案を出すような受験態度でしたが、良い成績だったようで、面接の前に警察庁の京大卒幹部から勧誘の電話があったことを覚えています。
面接では、防衛庁志望という自分の考えは言わないで無事合格しました。そのときの合格順位から考えて前年の不合格の理由が前記の面接での一言にあったことに間違いないと今でも確信しています。
防衛庁での思い出
浪人中に受験した司法試験はまたも不合格で、それ以上浪人を続けるわけにゆかず、昭和47年に防衛庁に入りました。刑事事件で話題になった守屋氏は一年先輩でした。当時の防衛庁のいわゆる背広組は、他の官庁に採用されなかったからやむなくという人が大半でしたが、守屋氏は自衛隊に愛着がある一流の人物だという印象を持ちました。
防衛庁では予算担当課で大蔵省や総理府への使い走りのような仕事をしていました。その中での思い出は、私が作った世界各国の防衛費比較の一覧表が当時の田中首相から褒められたことです。日本の防衛費がいかに少ないかが一目で解る資料で、田中首相が防衛庁幹部に「この資料は良く出来ている」と褒めて、その言葉が回り回って私に届いたのです。
検事としての経歴
その年、司法試験に合格しましたが、防衛庁にも愛着があったので一年延ばして昭和49年司法研修所に入りました。昭和51年念願の検事となり、その後、南は福岡、北は札幌などに勤務して、最後は釧路地検検事正で平成19年に退官しました。その間、公安調査庁で審理課長を勤めたこともあります。